宗教巡り -2-

もし、あなたが相当に若ければ、


愛とは、「恋愛」の「愛」のことをイメージするかもしれません


もしくは、親から受ける「無償の愛情」のようなものをイメージするかもしれません。


それなりに長く生きていれば、


日本語で「愛」と一括りにされているそれは、以下のように分類されていることを


知識として知っているかもしれません。


「マニアの愛」ストーカー的な愛。偏愛・束縛・監視。


「ルダスの愛」遊びの愛。快楽やゲーム感覚としての愛。


「プラグマの愛」打算的な愛。お金持ち、肩書きなどの属性に対して愛情が湧く。


「ストーゲイの愛」血縁に基づいた愛。


「エロスの愛」ロミオとジュリエット的な愛。


「フィリアの愛」走れメロスの愛。友情。


「アガペーの愛」キリストの愛。隣人愛。


※Wikipedia


キリスト教の愛は「アガペーの愛」を指しています。


私は、「愛」にこんなに種類があると知ったのは、成人後でした。


それを知った時は、目から鱗が落ちるように、私の世界が少し変わりました。


私は、長い間キリスト教が言う「愛」が何かということを曖昧にしたまま


聖書を理解しようとしていました。


「愛」は家族愛の愛というイメージで聖書をなぞっていて、


いまいちピンときていませんでした。


キリスト教の「愛」は、私が幼少の頃から「愛」と定義していた


言葉の意味と何か違うようなのです。


キリスト教の愛の定義(コリント人への手紙 第13章)


「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。


愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、


いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ」


このキリスト教の「愛」は、「崇高な魂として生きる」という


生き方そのものを表しているようにも思えます。


自分は、いまだにこの「愛」というものが何なのかよくわからないのです。


自分は、ストーゲイの愛(血縁の愛)がほぼありません。


「血が繋がっているという理由で人を愛することはできない」


というのが座右の銘の一つです。


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