常識と習慣と洗脳

私が学生の頃、オウム真理教の事件が大々的に報じられていました。
その頃、洗脳される人って不思議と、どこか他人事で眺めていました。
しかし、自分も実は洗脳に近いような常識の刷り込みで脳が支配されていたことに気づくことが何度もあります。


その一つは
「あなたは、独善的だ」
と言われて、仲の良かった友人と絶縁した時でした。


自分は大してたくさん本を読んでいませんでしたが、
なぜか、なんでも知っているような気になって、
あれこれと友人の問題に口を出していたのです。


善と悪の判断について、個人レベルから少しずつフレームを広げていって、
個人、個人の現在、個人の未来、関連する人の現在、未来、その関連する人たちに関連する人たちの現在、未来とバタフライエフェクトのように人と人は繋がっているので、最終的には大きな影響をおよぼすこともあります。
そう考えると、個人レベルでは悪のように見えても、全体にまで広がった時に善になることも往々にしてあると思うようになったのです。


そこに、アドラー(嫌われない勇気の哲学者)の「課題の分離」という言葉がしっくりきます。
他人の課題には、入り込まない。ただそれだけです。
自分自身の課題に真摯に取り組んで、他人を批判したり、コントロールしようなどとしてはいけないのです。


しかし、頭でわかっていても、私自身は不愉快な他人の言動をなんとか改めさせようとイライラとしてしまうのです。
私の母は生ゴミを家庭菜園の土に埋めて肥料にします。
ここまでは、よいのですが、土に完全に埋めないので、生ゴミが私の視界に入るのが
なんとも不快です。
注意しても母の行動は決して直ることはなく、ただ険悪になるだけです。
これこそ、まさに他人との「課題の分離」で母の行動に私は口を挟んではいけないのだろうなと思うのですが、庭でくつろいでいる時に生ゴミのかけらが土から覗いて視界に入ってしまったらもやもやしてしまうのです。。。
「母が生ゴミをきちんと埋める、埋めない」ではなく「このもやもやする、しない」が私の課題なのです。

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