子供時代の神々の死(唯物主義)

子供時代の神々

子供時代、私は、仏教に傾倒した幼稚園へ通い、
小学時代は、キリスト教の日曜学校へ通い、
眠る時には、お釈迦様とキリスト様と神様へお祈りして
世界の平和と周りの人と自分の幸せを祈ってから眠っていました。


話が逸れますが、小学時代、仲の良い友人とこんな会話をしたことがあります。
「お祈りする時に、自分のことだけ祈ったら悪いから、世界の平和も祈って寝るねん」
「私も!」

と、なんだか大人になった今と精神的に大きく変わっていません・・・
子供は知識が少ないだけで、意外に大人だという記憶があるので、
子供を侮らないに限ります。(話が逸れました)


私は、中学時代に進学塾へ通っていました。
高学歴の教師から教わった唯物論的な思考に染まりました。
唯物論を知った時、私の中の神や仏は、消えてしまいました。


宗教全般は、無知な人達の迷信と妄想と一蹴するようになってしまったのです。


一時的に、万能感が高まって、バブルが弾けたといっても
裕福な日本の俗物的な思考に染まっていったのです。


塾の教師達は、それぞれ一流大学卒業し
ユーモアがあり、おしゃれでした。みな個性があって素敵な先生達でした。


良い大学へ行って、良い会社へ行き、庭のある大きな一軒家で暮らすこと。


これが当たり前の価値観でした。


当時、サザエさんの家庭を裕福だとか、幸福だとか思う人は少なかったと思います。
車を持っていない分、普通よりも少し貧しいくらいに考えていたかもしれません。


私は、その考えに疑いを持つことは不可能でした。


塾のクラスは「スーパーAクラス」というクラスに所属していました。
成績上位者のためのクラスでした。
とはいえ5クラス中の1クラスなので、たかだか上位20%にすぎません。


答え合わせをする時に、丸をつける音が鳴り響いて、なんとなく心地よかったことを
覚えています。


しかし、そのちっぽけな「優越感」は、長く暗いトンネルの入り口でした。
高校へ入ってから、私の人生は暗転しました。
長く続く苦難を思えば、割りに合わないほどの束の間の快感でした。


少しずつ、事態が悪い方向へ進み、大学一年生の頃にはどん底の状態でした。


重度の鬱状態で、失語症になっていました。


暗闇の中の光

大学時代のゼミの教授は、暖かくてとても優しい人でした。
授業の合間に、1960年代のニューエイジ(スピリチュアル)思想の話をしてくれました。


やわらかい光の差し込んだ教室で教授が
「たくさんの本をよんで研究した結果、生まれ変わりはあると信じるに至った」
と言いました。
それは、倫理に関する授業の中だったと思います。
「同じ環境で同じDNAだったら、同じような性格になるか?」
と私たちに問いかけたこともありました。
私は、そんなこと考えたことがありませんでした。
普通に考えると、同じ性格(人格)になりそうなものです。
しかし、何か違うような気がするのです。
すると、教授は、
「個別の魂というものが存在する」
と続けました。


唯物論で凍りついてしまった心と頭が少しほぐれていくのを感じました。


因果関係は不明ですが
唯物論に染まってから、小学生時代至福だった読書がまったくできなくなっていました。


しかし、少しずつ読書を再開したのです。
その時、仏教関連の本も読むことになりました。


唯物論者だった私は、宗教全般を胡散臭いものとして捉えていました。
宗教の芸術性も哲学も何も理解しようとしていませんでした。


仏教哲学の奥深さを知り、真っ暗闇だった私の人生は少しずつ
光を取り戻すことになりました。


仏教で言うところの無明の世界にいた私に、一筋の光が差し込んだのです。


<小説下書き>

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