私の愛毒書 「走れトカトントン①」

私の愛読書は荻野アンナさんの「私の愛毒書」です。


この本を読んで、文芸とはなんたるかを知りました。


もう絶版されていますが、かろうじて中古で手に入ります。
しかし、中古もamazonで数えられる程度しか在庫はないようです。


私は、この本を一生手元に置いて、定期的に読み続けるつもりです。



どうやってこの本を知ったかというと
高橋源一郎さんの書評で知りました。


高橋源一郎さんの書評では渡辺淳一氏の「失楽園」が朱書きで添削されていましたが、
荻野アンナさんの作品には、「斬新すぎるやろ」という驚きとともにリスペクトがあったように記憶しています。


この「私の愛毒書」は、文豪の名作をベースにした、新作落語風の文芸と私は形容してみます。
当時の新刊の帯には「書評小説」という新たなジャンルとして売り出したようです。


この中で私が好きな話は
「走れトカトントン」
「おめでたき小説」
の二作品です。
どちらも、文学を読み尽くし研究し尽くした筆者だからこそ書ける、人間技とは思えない作品です。
(※荻野アンナさんは文学部の教授をされています)


太宰治の複数の作品「走れメロス」「人間失格」「トカトントン」他の名言・名場面を盛り込んだ「走れトカトントン」
筆者自身が楽しみながら、踊るように筆が勝手に動いて書き上げたようなそんな仕上がりに感じられました。文章が獲れたての魚みたいに踊り活きているのです。


少し引用してみます。
リズムが心地よくて、気分が軽くなる素晴らしい文章です。


「先生の意気地なし」
女にこんなふうに言わせるなんて。瞳に恨みを込めたつもりが、自然と目の周りが赤らんで、媚びる風情になってしまう。
「好きなのよ」
これも先生には、
「トカトントン」としか聞こえないのでしょうか。
申し遅れました。わたくし、トカトントンと申します。姓はトカトンで名はトン、なのでしょうか。それとも姓はトカで名はトントン。自分でもわからないのでございます。名前があやふやなら、生まれ故郷も両親も育ちも、何一つとしてはっきりとは覚えておりません。気がつくと先生の四畳半の押し入れの中におりました。先生は夜中に押し入れを開けると、わたくしを取り出して畳の上におきました。
「今日はなんだか布団が重い。飲みすぎたかな」
とおっしゃったのを覚えています。
そうかわたくしは布団なのか、そう思いながら敷布団の上に広げられていきました。


主人公は布団で、主人の「太宰不治」に好意を持っています。
布団語でしきりに主人に語りかけますが「トカトントン」としか聞こえないのです。
元は大工の棟梁の家にいた中古の布団なので、金槌語を話す設定です。


「不治には月見草がよく似合う」


などの駄洒落と太宰治小話がところどころに散りばめられています。
元の太宰の作品は「富士には月見草がよく似合う」です。


翌日からわたくしはいわゆる「女房気取り」です。朝は自分から起き上がって、食事の支度に立ちました。布団には布団なりの目鼻があります。私は元々色白の、自分でも言うのはなんですが、﨟󠄀長けた年増布団でした。道ならぬ恋にやつれ、体が透き通って、男の布団ならふるいつきたくなるような風情です。それでも人間からみるとただの四角四面ののっぺらぼう。撫でようがつねろうが面白いはずがございません。が、人間の女と違って、飯は食わないし文句も言わない。味噌汁の葱を刻むわたくしの後ろ姿を横目にひとしきりそろばんが鳴って、結局そのまま、ずるずるべったりになりました。


この「走れトカトントン」を読むと、私の脳内では、市原悦子さんのナレーションで再生されます。


まだまだ、書き足りないので、<その2>に続きます。


ところで、世の中には、新しい作品が次々と生まれますが、
その代わりに過去の名作が埋もれていきます。


時々、作品への愛を持つ人がその作品掘り起こして、啓蒙活動をしています。
古い本のレビュー動画を「TikTok」で紹介する人。youtube動画で紹介する人など。
私の中にもその「衝動」があったようなのです。


その「衝動」が興味深いと私は思うのです。
私は、「走れトカトントン」を一人でも多くの人に「知ってもらいたい」
という気持ちがあります。そして、私のその「知ってもらいたい」という「衝動」も、興味深いということを言っています。私にとってなんの得もないですから・・・


この「衝動」について、また記事にしますが、それは、また別の話です。



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